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kyupinの日記 気が向けば更新 (精神科医のブログ)

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2018年10月

2018年10月14日 (日)

【90】記憶の性質

本田宗一郎 100の言葉
第4章 生きる

試験で強制されなかった
ものについては
いつまでも覚えている

 本嫌いを公言していた宗一郎だったが、若い時代に『徒然草』
や、『太平記』などを好んで読んだ日々もあり、一節を暗記する
など意外な一面も持ち合わせていた。

 カーラジオで古典の解説が放送されると、運転しながらも注意
深く聞き耳を立てていたという。

「試験するから暗記しろと言われたんじゃ絶対に覚えっこないん
だけどね」と語った宗一郎。

 主体的な読書については、明瞭にその内容を記憶していた。

別冊宝島編集部 偏

2018年10月13日 (土)

【89】顔が大きくなった

本田宗一郎 100の言葉
第4章 生きる

ハゲたのではない。
顔が大きくなったのだ。

 50代のころから頭髪が薄くなってきた宗一郎。妻のさちが止
めるのも聞かず、世界中から養毛剤を取り寄せて試すなどしたが、
宗一郎はそれを隠すことなく、スピーチに取り入れるなど、あち
こちで自ら「ネタ」にしていた。

 視察旅行でスイスのジュネーブを訪れた際も、大量の養毛剤を
購入。

「だが使ってみたら胸が張ってきやがった」

 どうやらその薬は女性ホルモンが多かったようで、宗一郎の薄
毛は止まらなかった。

別冊宝島編集部 偏

2018年10月10日 (水)

【88】最高の遺産

本田宗一郎 100の言葉
第4章 生きる

「あなたのお父さんまたは
お母さんはとてもいい方でした。
お世話になりました」
多くの人からそう言ってもらえることが
親が子に残す最高の遺産だ。

 息子が経営者として成功をおさめても、最後まで郷里・浜松を
離れることなく質素な暮らしを続けたのが宗一郎の両親だった。

 1962(昭和37)年、本田宗一郎は職人として生きた父・
儀平の葬儀で、多くの人からその人間性を称える言葉を聞いたと
き、最高の遺産を残してもらったと感激した。

「どんな財産よりも、皆さんの言葉のほうが尊い」

 晩年の宗一郎が晩節を汚さぬ「人生の着地」にこだわったのも
うなずける話である。

別冊宝島編集部 偏

2018年10月 8日 (月)

【87】科学的な歴史認識

本田宗一郎 100の言葉
第4章 生きる

日清、日露の戦役で
なぜ日本が勝ったのか
その勝利の背景を国民が科学的に
理解しなかったことが
その後の無謀な戦争に
つながる原因になった

 1905(明治38)年の日本海海戦は「奇跡の勝利」といわ
れたが、技術者の宗一郎に言わせるとそれは奇跡でもなんでもな
く、日本とロシア両軍の戦艦のスピード差にあった。

「機動力に大きな差があったわけで、速いほうが勝って当然だっ
た。政府や学者や新聞はあのとき合理的な根拠を示し、決して奇
跡の勝利ではなかったということを国民に理解させるべきだった。
そうした努力があれば、後に国民を悲劇に引きずり込む空虚な精
神主義はうまれなかった」

別冊宝島編集部 偏

2018年10月 7日 (日)

【86】民主主義のルール

本田宗一郎 100の言葉
第4章 生きる

ものの考え方はいろいろあってよい。
反対するのもよい。
だが一度法律として可決されたものなら
法治国家である以上
守らなければならない。

 1959(昭和34)年4月10日、現在の天皇陛下と美智子
皇后が結婚式をあげ、その当日は臨時法案が可決され国民の休日
となった。

 宗一郎はその日を休日にすることに反対していた。祝福の気持
ちは国民の心のなかの問題であり、法律化することにはそぐわな
いと感じたからである。

 しかし、法案は成立。宗一郎は会社を休日にした。それを知っ
た人が宗一郎に「気が変わったのか」と質問した。

「考えは反対でも決定は決定。それが民主主義のルールだ」

別冊宝島編集部 偏

2018年10月 6日 (土)

【85】実地経験者は語る

本田宗一郎 100の言葉
第4章 生きる

みなさんは学識経験者で
いらしゃいますが
私の場合はただ実地の経験が
豊富だったという理由で
会長になりました。

 財界の要人として政府の「売春対策審議会会長」に選任された
宗一郎。お堅い官僚たちや有識者を前に、宗一郎は得意のスピー
チで出席者の心をガッチリとつかんだ。

 また、宗一郎は結婚式で長々とスピーチをする人間を嫌い、自
身のときはこんな調子でサッと切り上げた。

「みなさんいろいろ言いたいことがあるのだろうけれども、新郎
新婦はこれから深夜労働の超過勤務があるわけですから年寄は早
く帰ろうじゃありませんか」

別冊宝島編集部 偏

2018年10月 5日 (金)

【84】自家用機「墜落」事件

本田宗一郎 100の言葉
第4章 生きる

プロレスでいう逆エビだな。
火がついたらバーベキューに
なるところだった。
あんなに速く走ったのは
人生のなかで初めてだ。

 少年時代から航空機に並々ならぬ興味を示していた宗一郎。
1963(昭和38)年には自ら自家用パイパー機に乗り込み調
布飛行場から鈴鹿サーキットに向かったが、静岡県上空でオイル
が漏れ出し緊急着地する。

 エンジンを修理し、もう一度離陸しようとしたが、横風を受け
今度は頭から水田に突っ込んだ。

 あやうく一命を取り留めたが、転んでもタダでは起きない宗一
郎。命拾いを祝ってこの日は名古屋で芸者遊びをしたという。

別冊宝島編集部 偏

2018年10月 4日 (木)

【83】自分をさらけ出す

本田宗一郎 100の言葉
第4章 生きる

嘘の生き方で苦労するよりも
自分をさらけ出したほうが
どんなに楽か分からない。

「”遊びたいから遊ぶ”でいいんだ!」

 これは宗一郎がいつも社員に語りかけていた言葉である。
 自分を良く見せようとせず、本音かつ自然体で生きる。ありの
ままの自分をさらけ出す。簡単なようで強い人間にしかできない
生き方である。

 聖人君子とはほど遠い人間だった宗一郎が、いまなおこれだけ
の人気を博し、誰からも愛される経営者として名を馳せたのは、
裏表と私心のないそのガラス張りの生きざまにあったといえよう。

別冊宝島編集部 偏

2018年10月 2日 (火)

【82】謝る勇気

本田宗一郎 100の言葉
第4章 生きる

オレはほんとうは
勇気のない男だ。
怒鳴ったりしたあとは必ず
悪いことをしたと思うんだが
謝ることができなかったんだ。

 日本を代表する経営者として知られる本田宗一郎だが、若き日
は、遠州人らしい激しい気性を爆発させ、時には手がでたり、も
のを投げたリする一面があった。

 しかし、どんなに怒鳴り散らした後も、2時間後には何事もな
かったかのように切り出す。

「オイ、池袋に店があるから飲みにいくぞ」
「仕事では怒るが終われば平等だ」
という宗一郎に対し、社員たちが
「分かってますよ」
と返すと、宗一郎は涙を浮かべて手を振ったという。

別冊宝島編集部 偏

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